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響きあうカデンツァ
響きあうカデンツァ
Author: 海野雫

第一章 孤独の旋律

Author: 海野雫
last update Last Updated: 2025-10-01 11:00:32

 四月の夕暮れは、いつも灰色の帳に包まれていた。

 篠原響は小さなワンルームマンションの一室で、鍵盤に指を這わせていた。窓の外では桜の花びらが舞い落ち、新入生たちの歓声が遠く聞こえてくる。春の訪れを祝う声、友人たちと肩を組んで歩く足音、恋人同士の笑い声――それらはすべて、響の部屋には届かない。厚いカーテンは閉ざされ、室内を照らすのは電子ピアノとパソコンのモニターが放つ冷たい光だけだった。

 指が鍵盤を叩くたび、旋律が生まれる。それは誰にも聴かせるつもりのない、響だけの言葉だった。高音から低音へと滑り落ちるアルペジオは、心の底に沈んだ孤独を掬い上げるように鳴り響く。和音が重なり、不協和音もやがて切なく解決していく。ハ短調からヘ短調へと転調し、まるで迷い込んだ魂が出口を探すように旋律は彷徨う。この瞬間だけは、響は自分が存在していいのだと思えた。音楽だけが、響の心を受け入れてくれる。

「……これで、いいんだ」

 言を呟いて、響は保存ボタンを押す。パソコンの画面には、無数の音符が並んでいた。DAWソフトに打ち込まれた音楽は、完璧に整えられているはずなのに、どこか欠けているような気がする。まるで、響自身のように。

 響は細い指で黒髪を掻き上げ、深い溜息をついた。猫背気味に椅子に座る響の影が、壁に大きく映っている。その影さえも、孤独を象徴しているようだった。部屋にはコーヒーの冷めた匂いと、埃っぽい空気が漂っている。エアコンの音だけが、単調なリズムを刻んでいた。

 携帯電話が震えた。画面には母からのメッセージが表示されている。

『今日は帰ってくる? ご飯を作って待っているわよ。響の好きなハンバーグにしようかしら』

 響は既読をつけたまま、返信しなかった。実家に帰れば、母は優しく微笑み、温かい食事を用意してくれる。けれどその優しさの奥に、いつも同じ言葉が潜んでいることを響は知っていた。

「普通に、幸せになってほしいの」

 普通――その言葉が、響の胸を締め付ける。

 母にとっての「普通」とはなにか。それは、異性を愛し、家庭を持ち、社会に溶け込んで生きること。母は悪気なくそう信じている。けれど響は、その「普通」から外れた存在だ。同性にしか恋愛感情を抱けない自分は、母の望む「普通」にはなれない。そしてそして響自身も、自分が『普通じゃない』ことから、異常で気持ち悪い存在だと思い込んでいた。

 響は椅子から立ち上がり、小さな冷蔵庫を開けた。中にはコンビニ弁当とペットボトルの水が数本。賞味期限が迫ったサラダと、半分だけ残ったおにぎり。食欲はなかったが、なにか口にしなければ倒れてしまいそうだった。

 響は冷たいおにぎりを頬張りながら、響はふと、高校時代の記憶に引きずり込まれた。

 あれは三年前の春だった。

 響は音楽室で、いつものようにピアノを弾いていた。放課後の静かな時間。部活動の声が遠くから聞こえてくるが、音楽室には誰もいない。響は心のままに旋律を紡いでいた。ショパンの夜想曲を弾いたあと、自分で作った曲を即興で演奏する。それは誰にも明かしたことのない、響だけの秘密の時間だった。

 そこへ、クラスメイトの男子が入ってきた。名前は思い出したくなかった。彼は穏やかな笑顔で響に話しかけ、響の演奏を「綺麗だね」と褒めてくれた。響は嬉しくて、もっと彼に聴いてほしくて、何度も音楽室で二人きりになった。彼は真面目で優しく、響の話をいつも聞いてくれた。音楽のこと、将来の夢のこと、好きな作曲家のこと――響は初めて、誰かと心を通わせている気がした。

 やがて響は、自分の中にある感情が「友情」ではないことに気づいた。胸が高鳴り、視線が追いかけ、触れたいと思う――それは、恋だった。

 響は怖かった。同性に恋をするなんて、おかしいことなのではないか。けれど、この気持ちを抑えることはできなかった。彼と一緒にいると、響の心は音楽を奏でているように躍動した。だから響は、勇気を出して告白することにした。

 告白したのは、卒業式の前日。

 音楽室で二人きりになったとき、響は震える声で言った。

「俺、お前のことが好きだ」

 彼は一瞬、驚いたような顔をして、それから――笑った。

「え、冗談だろ? 男が男を好きとか、気持ち悪いって」

 その言葉が、響の心に深い傷を残した。

「ごめん、俺そういうの無理だから。マジで気持ち悪い。ホモとか、ありえないし」

 彼はそう言い残して、足早に音楽室を出ていった。響は膝から崩れ落ち、鍵盤に額を押し付けて泣いた。ピアノの冷たい感触だけが、響を支えてくれた。涙が鍵盤の上に落ち、白と黒の境目を滲ませた。響は声を殺して泣いた。誰にも聞かれたくなかった。この痛みさえも、響だけのものだった。

 翌日の卒業式には、噂は学校中に広がっていた。

「篠原って、ホモなんだって」

「マジで? キモ……」

「近寄んないほうがいいよ。俺らも狙われるかもしれないし」

「音楽室で告白したらしいよ。マジで引くわ」

 誰も響に話しかけなくなった。廊下ですれ違えば、クラスメイトは露骨に距離を取った。机の中には「気持ち悪い」と書かれたメモが入れられていた。響は耐えた。ただ耐えた。音楽だけが、響を救ってくれた。

 卒業式の日、響は誰にも見送られることなく、ひとり校門を出た。桜の花びらが舞い落ちる中、響は振り返らなかった。もう二度と、誰にも心を開かないと決めた。同性を愛する自分は、異常で、気持ち悪くて、誰にも受け入れられない――そう思い込むことで、響は自分を守ろうとした。

 おにぎりの味がしなかった。

 響は無理やり飲み込み、水で流し込んだ。喉が痛い。心も痛い。響はパソコンの前に戻り、ヘッドホンを装着した。自分の作った曲を再生する。旋律が耳を満たすが、どこか虚ろだ。響は目を閉じた。

 あの日から、響は決めたのだ。もう誰にも心を開かない。音楽だけが、響の居場所だ。

大学に入ってからも、響はひとりだった。作曲科の学生として、課題の楽曲を提出し、教授からは「才能がある」と評価された。けれど響は、自分の音楽を誰かに聴かせたいとは思わなかった。この音楽は、響の孤独そのものだ。響の痛みであり、叫びであり、誰にも見せたくない、心の一番奥だ。誰かに触れられたら、また傷つけられるだけだ。

 響は同級生との交流も最低限にした。挨拶はするが、それ以上は踏み込まない。昼食はひとりで食べ、講義が終わればすぐに帰宅する。友人を作ろうとも思わなかった。友人ができたら、また自分の秘密を隠さなければならない。恋愛の話になったら、嘘をつかなければならない。それが耐えられなかった。

 夜が更けていく。響は再び鍵盤に向かい、新しい旋律を紡ぎ始めた。短調のメロディが、静かに部屋を満たしていく。それは誰にも届かない、響だけの叫びだった。

 窓の外では、街の灯りが煌めいている。どこかで誰かが笑い、どこかで誰かが愛を語らっている。けれど響には、その光は届かない。響はただ、暗闇の中で音楽を奏で続ける。それが、響の生きる意味だった。

 翌日、響は大学の音楽棟へ向かった。

 平日の午後、講義の合間に響が使える練習室は限られている。作曲科の学生は基本的にパソコンで作業することが多いが、響はやはりピアノの前に座りたかった。鍵盤に触れると、音が自分の体を通って生まれるような感覚がある。それは、生きている証のようなものだった。電子ピアノでは得られない、生のピアノの響き。弦が震え、木が共鳴し、音が空気を伝わっていく――その感覚が、響には必要だった。

 音楽棟は五階建ての古い建物で、各階に小さな練習室がいくつも並んでいる。廊下にはワックスの匂いと、どこからか聞こえてくるヴァイオリンの音色が漂っていた。響は三階の奥にある小さな練習室に入った。ここは人気が少なく、めったに誰も使わない。防音扉を閉め、鍵をかける。誰にも邪魔されない空間。ここだけが、響の聖域だった。

部屋の中には、アップライトピアノが一台だけ置かれている。古いピアノで、鍵盤には傷があり、調律も完璧ではない。けれど響はこのピアノが好きだった。誰にも愛されず、ただそこにあるだけのピアノは、まるで響自身のように思えた。

 響は椅子に座り、鍵盤に指を置く。深呼吸をして、目を閉じる。心を静め、音楽だけに集中する。埃っぽい空気と、古い木材の匂い。窓の外からは、かすかに鳥の囀りが聞こえてくる。

 響の指が動き始めた。

 最初は静かなアルペジオ。それが次第に高揚し、和音が重なっていく。旋律は波のように揺れ、時に激しく、時に囁くように優しい。響の心の中にある、言葉にできない感情のすべてが、音となって溢れ出していく。

 孤独、痛み、恐怖――そして、誰かに愛されたいという切ない願い。

 響は夢中で弾き続けた。時間の感覚が消え、ただ音楽だけが存在する。響の指は鍵盤を這い、旋律は部屋中に響き渡る。それは誰にも聴かせるためのものではなく、響だけの祈りだった。

 どれくらい弾いていただろう。

 ふと、響は背後に気配を感じた。

 心臓が跳ねる。響は演奏を止め、ゆっくりと振り返った。

 そこには、見知らぬ男が立っていた。

 響は息を呑んだ。いつの間に入ってきたのか――いや、鍵をかけ忘れたのか。男は扉の前に立ち、じっと響を見つめていた。その目は、なにかに打たれたように見開かれていた。

「……誰?」

 響の声は震えていた。喉が渇き、言葉がうまく出てこない。

 男は、ゆっくりと微笑んだ。

「ごめん、扉が開いてたから。でも……すごかった」

 男は長身で、茶色の髪を無造作に撫でつけていた。爽やかな笑顔が印象的で、目が少し細められている。カジュアルなシャツとジーンズ姿で、どこか華やかな雰囲気を纏っていた。日焼けした肌、自信に満ちた佇まい――響とはまるで正反対の存在だった。まるで、別世界から迷い込んできた太陽のような人間だった。

「今の曲、お前が作ったの?」

 響は答えられなかった。喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。見知らぬ誰かに自分の音楽を聴かれた――それが、怖かった。自分の心の奥底を覗かれたような気がして、響は体を強張らせた。

「出てって」

 響は立ち上がり、男に背を向けた。荷物をまとめなければ。この場を離れなければ。指先が震えて、楽譜をうまく掴めない。

「待って。名前、教えてくれないか? 俺、藤堂晴真っていうんだけど」

「……知らない。帰って」

 響は鍵盤の蓋を閉め、荷物をまとめ始めた。けれど男――藤堂晴真は、諦める様子がなかった。

「なあ、お前の曲、もっと聴きたい。すごく良かった。心が震えた」

 心が震えた――その言葉が、響の胸を刺す。

「……」

「俺、声楽科なんだ。歌ってるんだけど、お前の曲みたいな音楽を探してた。ずっと探してた」

 藤堂の声は真剣だった。冗談を言っているようには聞こえない。けれど響は、信じることができなかった。きっとまた裏切られ、気持ち悪いと言われてしまうだけだと思った。過去の傷が、鮮明に蘇ってくる。

 響は荷物を抱え、藤堂の横を通り過ぎようとした。けれど藤堂は響の腕を掴んだ。その温もりに、響の体は固まった。

「待ってよ。お願いだから、もう一度聴かせてくれ」

「触らないで!」

 響は振りほどき、扉を開けて飛び出した。廊下を走り、階段を駆け下りる。心臓が張り裂けそうだった。背後から藤堂の声が聞こえたが、響は振り返らなかった。ただ逃げた。音楽棟を出て、キャンパスの隅にあるベンチに座り込む。

 息が荒い。手が震えている。春の風が頬を撫でるが、響には冷たく感じられた。

「……どうして」

 響は顔を覆った。

 なんで、聴かれてしまったんだ。あの音楽は、響だけのものだったのに。誰かに聴かれたら、また傷つけられる。また、気持ち悪いと言われる。響の音楽は、響の孤独そのものだ。それを誰かに見せることは、響の傷をさらけ出すことだ。

「お前の曲、すごかった」

 藤堂晴真の言葉が、頭の中で反響する。

 響は首を振った。信じてはいけない。また裏切られるだけだ。響は、ひとりでいるべきなのだ。音楽だけが、響を裏切らない。

 響はベンチに座ったまま、空を見上げた。桜の花びらが舞い落ちている。春の風が、響の頬を撫でる。けれど響には、その温もりが感じられなかった。遠くで笑い声が聞こえる。キャンパスのどこかで、誰かが楽しそうに話している。けれどその声は、響には届かない。

 その後数日間、響は練習室に足を運ぶことはなかった。

 部屋に閉じこもり、パソコンの前で作曲を続ける。けれど、どうしても集中できなかった。藤堂晴真の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。あの真剣な目、あの笑顔、あの声――すべてが、響の心を揺さぶる。

「心が震えた」

 そんな言葉を、誰かに言われたのは初めてだった。

 響は頭を振り、ヘッドホンを装着した。自分の作った曲を再生し、目を閉じる。旋律が耳を満たすが、どこか物足りない。なにかが足りない。

 いや、違う。

 足りないのは――誰かに聴いてもらうことなのかもしれない。

 響は、その考えを振り払った。そんなことを考えてはいけない。また傷つけられるだけだ。

 けれど、心の奥底で、小さな声が囁く。

「もう一度、あの人に聴かせてみたい」

 響は顔を覆った。駄目だ。そんなことを考えてはいけない。鍵盤に指を置くが、音は鳴らなかった。なにも弾けなかった。

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