Masuk
四月の夕暮れは、いつも灰色の帳に包まれていた。
篠原響は小さなワンルームマンションの一室で、鍵盤に指を這わせていた。窓の外では桜の花びらが舞い落ち、新入生たちの歓声が遠く聞こえてくる。春の訪れを祝う声、友人たちと肩を組んで歩く足音、恋人同士の笑い声――それらはすべて、響の部屋には届かない。厚いカーテンは閉ざされ、室内を照らすのは電子ピアノとパソコンのモニターが放つ冷たい光だけだった。
指が鍵盤を叩くたび、旋律が生まれる。それは誰にも聴かせるつもりのない、響だけの言葉だった。高音から低音へと滑り落ちるアルペジオは、心の底に沈んだ孤独を掬い上げるように鳴り響く。和音が重なり、不協和音もやがて切なく解決していく。ハ短調からヘ短調へと転調し、まるで迷い込んだ魂が出口を探すように旋律は彷徨う。この瞬間だけは、響は自分が存在していいのだと思えた。音楽だけが、響の心を受け入れてくれる。
「……これで、いいんだ」
言を呟いて、響は保存ボタンを押す。パソコンの画面には、無数の音符が並んでいた。DAWソフトに打ち込まれた音楽は、完璧に整えられているはずなのに、どこか欠けているような気がする。まるで、響自身のように。
響は細い指で黒髪を掻き上げ、深い溜息をついた。猫背気味に椅子に座る響の影が、壁に大きく映っている。その影さえも、孤独を象徴しているようだった。部屋にはコーヒーの冷めた匂いと、埃っぽい空気が漂っている。エアコンの音だけが、単調なリズムを刻んでいた。
携帯電話が震えた。画面には母からのメッセージが表示されている。
『今日は帰ってくる? ご飯を作って待っているわよ。響の好きなハンバーグにしようかしら』
響は既読をつけたまま、返信しなかった。実家に帰れば、母は優しく微笑み、温かい食事を用意してくれる。けれどその優しさの奥に、いつも同じ言葉が潜んでいることを響は知っていた。
「普通に、幸せになってほしいの」
普通――その言葉が、響の胸を締め付ける。
母にとっての「普通」とはなにか。それは、異性を愛し、家庭を持ち、社会に溶け込んで生きること。母は悪気なくそう信じている。けれど響は、その「普通」から外れた存在だ。同性にしか恋愛感情を抱けない自分は、母の望む「普通」にはなれない。そしてそして響自身も、自分が『普通じゃない』ことから、異常で気持ち悪い存在だと思い込んでいた。
響は椅子から立ち上がり、小さな冷蔵庫を開けた。中にはコンビニ弁当とペットボトルの水が数本。賞味期限が迫ったサラダと、半分だけ残ったおにぎり。食欲はなかったが、なにか口にしなければ倒れてしまいそうだった。
響は冷たいおにぎりを頬張りながら、響はふと、高校時代の記憶に引きずり込まれた。
あれは三年前の春だった。
響は音楽室で、いつものようにピアノを弾いていた。放課後の静かな時間。部活動の声が遠くから聞こえてくるが、音楽室には誰もいない。響は心のままに旋律を紡いでいた。ショパンの夜想曲を弾いたあと、自分で作った曲を即興で演奏する。それは誰にも明かしたことのない、響だけの秘密の時間だった。
そこへ、クラスメイトの男子が入ってきた。名前は思い出したくなかった。彼は穏やかな笑顔で響に話しかけ、響の演奏を「綺麗だね」と褒めてくれた。響は嬉しくて、もっと彼に聴いてほしくて、何度も音楽室で二人きりになった。彼は真面目で優しく、響の話をいつも聞いてくれた。音楽のこと、将来の夢のこと、好きな作曲家のこと――響は初めて、誰かと心を通わせている気がした。
やがて響は、自分の中にある感情が「友情」ではないことに気づいた。胸が高鳴り、視線が追いかけ、触れたいと思う――それは、恋だった。
響は怖かった。同性に恋をするなんて、おかしいことなのではないか。けれど、この気持ちを抑えることはできなかった。彼と一緒にいると、響の心は音楽を奏でているように躍動した。だから響は、勇気を出して告白することにした。
告白したのは、卒業式の前日。
音楽室で二人きりになったとき、響は震える声で言った。
「俺、お前のことが好きだ」
彼は一瞬、驚いたような顔をして、それから――笑った。
「え、冗談だろ? 男が男を好きとか、気持ち悪いって」
その言葉が、響の心に深い傷を残した。
「ごめん、俺そういうの無理だから。マジで気持ち悪い。ホモとか、ありえないし」
彼はそう言い残して、足早に音楽室を出ていった。響は膝から崩れ落ち、鍵盤に額を押し付けて泣いた。ピアノの冷たい感触だけが、響を支えてくれた。涙が鍵盤の上に落ち、白と黒の境目を滲ませた。響は声を殺して泣いた。誰にも聞かれたくなかった。この痛みさえも、響だけのものだった。
翌日の卒業式には、噂は学校中に広がっていた。
「篠原って、ホモなんだって」
「マジで? キモ……」
「近寄んないほうがいいよ。俺らも狙われるかもしれないし」
「音楽室で告白したらしいよ。マジで引くわ」
誰も響に話しかけなくなった。廊下ですれ違えば、クラスメイトは露骨に距離を取った。机の中には「気持ち悪い」と書かれたメモが入れられていた。響は耐えた。ただ耐えた。音楽だけが、響を救ってくれた。
卒業式の日、響は誰にも見送られることなく、ひとり校門を出た。桜の花びらが舞い落ちる中、響は振り返らなかった。もう二度と、誰にも心を開かないと決めた。同性を愛する自分は、異常で、気持ち悪くて、誰にも受け入れられない――そう思い込むことで、響は自分を守ろうとした。
おにぎりの味がしなかった。
響は無理やり飲み込み、水で流し込んだ。喉が痛い。心も痛い。響はパソコンの前に戻り、ヘッドホンを装着した。自分の作った曲を再生する。旋律が耳を満たすが、どこか虚ろだ。響は目を閉じた。
あの日から、響は決めたのだ。もう誰にも心を開かない。音楽だけが、響の居場所だ。
大学に入ってからも、響はひとりだった。作曲科の学生として、課題の楽曲を提出し、教授からは「才能がある」と評価された。けれど響は、自分の音楽を誰かに聴かせたいとは思わなかった。この音楽は、響の孤独そのものだ。響の痛みであり、叫びであり、誰にも見せたくない、心の一番奥だ。誰かに触れられたら、また傷つけられるだけだ。
響は同級生との交流も最低限にした。挨拶はするが、それ以上は踏み込まない。昼食はひとりで食べ、講義が終わればすぐに帰宅する。友人を作ろうとも思わなかった。友人ができたら、また自分の秘密を隠さなければならない。恋愛の話になったら、嘘をつかなければならない。それが耐えられなかった。
夜が更けていく。響は再び鍵盤に向かい、新しい旋律を紡ぎ始めた。短調のメロディが、静かに部屋を満たしていく。それは誰にも届かない、響だけの叫びだった。
窓の外では、街の灯りが煌めいている。どこかで誰かが笑い、どこかで誰かが愛を語らっている。けれど響には、その光は届かない。響はただ、暗闇の中で音楽を奏で続ける。それが、響の生きる意味だった。
翌日、響は大学の音楽棟へ向かった。
平日の午後、講義の合間に響が使える練習室は限られている。作曲科の学生は基本的にパソコンで作業することが多いが、響はやはりピアノの前に座りたかった。鍵盤に触れると、音が自分の体を通って生まれるような感覚がある。それは、生きている証のようなものだった。電子ピアノでは得られない、生のピアノの響き。弦が震え、木が共鳴し、音が空気を伝わっていく――その感覚が、響には必要だった。
音楽棟は五階建ての古い建物で、各階に小さな練習室がいくつも並んでいる。廊下にはワックスの匂いと、どこからか聞こえてくるヴァイオリンの音色が漂っていた。響は三階の奥にある小さな練習室に入った。ここは人気が少なく、めったに誰も使わない。防音扉を閉め、鍵をかける。誰にも邪魔されない空間。ここだけが、響の聖域だった。
部屋の中には、アップライトピアノが一台だけ置かれている。古いピアノで、鍵盤には傷があり、調律も完璧ではない。けれど響はこのピアノが好きだった。誰にも愛されず、ただそこにあるだけのピアノは、まるで響自身のように思えた。
響は椅子に座り、鍵盤に指を置く。深呼吸をして、目を閉じる。心を静め、音楽だけに集中する。埃っぽい空気と、古い木材の匂い。窓の外からは、かすかに鳥の囀りが聞こえてくる。
響の指が動き始めた。
最初は静かなアルペジオ。それが次第に高揚し、和音が重なっていく。旋律は波のように揺れ、時に激しく、時に囁くように優しい。響の心の中にある、言葉にできない感情のすべてが、音となって溢れ出していく。
孤独、痛み、恐怖――そして、誰かに愛されたいという切ない願い。
響は夢中で弾き続けた。時間の感覚が消え、ただ音楽だけが存在する。響の指は鍵盤を這い、旋律は部屋中に響き渡る。それは誰にも聴かせるためのものではなく、響だけの祈りだった。
どれくらい弾いていただろう。
ふと、響は背後に気配を感じた。
心臓が跳ねる。響は演奏を止め、ゆっくりと振り返った。
そこには、見知らぬ男が立っていた。
響は息を呑んだ。いつの間に入ってきたのか――いや、鍵をかけ忘れたのか。男は扉の前に立ち、じっと響を見つめていた。その目は、なにかに打たれたように見開かれていた。
「……誰?」
響の声は震えていた。喉が渇き、言葉がうまく出てこない。
男は、ゆっくりと微笑んだ。
「ごめん、扉が開いてたから。でも……すごかった」
男は長身で、茶色の髪を無造作に撫でつけていた。爽やかな笑顔が印象的で、目が少し細められている。カジュアルなシャツとジーンズ姿で、どこか華やかな雰囲気を纏っていた。日焼けした肌、自信に満ちた佇まい――響とはまるで正反対の存在だった。まるで、別世界から迷い込んできた太陽のような人間だった。
「今の曲、お前が作ったの?」
響は答えられなかった。喉が渇き、心臓が早鐘を打つ。見知らぬ誰かに自分の音楽を聴かれた――それが、怖かった。自分の心の奥底を覗かれたような気がして、響は体を強張らせた。
「出てって」
響は立ち上がり、男に背を向けた。荷物をまとめなければ。この場を離れなければ。指先が震えて、楽譜をうまく掴めない。
「待って。名前、教えてくれないか? 俺、藤堂晴真っていうんだけど」
「……知らない。帰って」
響は鍵盤の蓋を閉め、荷物をまとめ始めた。けれど男――藤堂晴真は、諦める様子がなかった。
「なあ、お前の曲、もっと聴きたい。すごく良かった。心が震えた」
心が震えた――その言葉が、響の胸を刺す。
「……」
「俺、声楽科なんだ。歌ってるんだけど、お前の曲みたいな音楽を探してた。ずっと探してた」
藤堂の声は真剣だった。冗談を言っているようには聞こえない。けれど響は、信じることができなかった。きっとまた裏切られ、気持ち悪いと言われてしまうだけだと思った。過去の傷が、鮮明に蘇ってくる。
響は荷物を抱え、藤堂の横を通り過ぎようとした。けれど藤堂は響の腕を掴んだ。その温もりに、響の体は固まった。
「待ってよ。お願いだから、もう一度聴かせてくれ」
「触らないで!」
響は振りほどき、扉を開けて飛び出した。廊下を走り、階段を駆け下りる。心臓が張り裂けそうだった。背後から藤堂の声が聞こえたが、響は振り返らなかった。ただ逃げた。音楽棟を出て、キャンパスの隅にあるベンチに座り込む。
息が荒い。手が震えている。春の風が頬を撫でるが、響には冷たく感じられた。
「……どうして」
響は顔を覆った。
なんで、聴かれてしまったんだ。あの音楽は、響だけのものだったのに。誰かに聴かれたら、また傷つけられる。また、気持ち悪いと言われる。響の音楽は、響の孤独そのものだ。それを誰かに見せることは、響の傷をさらけ出すことだ。
「お前の曲、すごかった」
藤堂晴真の言葉が、頭の中で反響する。
響は首を振った。信じてはいけない。また裏切られるだけだ。響は、ひとりでいるべきなのだ。音楽だけが、響を裏切らない。
響はベンチに座ったまま、空を見上げた。桜の花びらが舞い落ちている。春の風が、響の頬を撫でる。けれど響には、その温もりが感じられなかった。遠くで笑い声が聞こえる。キャンパスのどこかで、誰かが楽しそうに話している。けれどその声は、響には届かない。
その後数日間、響は練習室に足を運ぶことはなかった。
部屋に閉じこもり、パソコンの前で作曲を続ける。けれど、どうしても集中できなかった。藤堂晴真の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。あの真剣な目、あの笑顔、あの声――すべてが、響の心を揺さぶる。
「心が震えた」
そんな言葉を、誰かに言われたのは初めてだった。
響は頭を振り、ヘッドホンを装着した。自分の作った曲を再生し、目を閉じる。旋律が耳を満たすが、どこか物足りない。なにかが足りない。
いや、違う。
足りないのは――誰かに聴いてもらうことなのかもしれない。
響は、その考えを振り払った。そんなことを考えてはいけない。また傷つけられるだけだ。
けれど、心の奥底で、小さな声が囁く。
「もう一度、あの人に聴かせてみたい」
響は顔を覆った。駄目だ。そんなことを考えてはいけない。鍵盤に指を置くが、音は鳴らなかった。なにも弾けなかった。
翌朝早く、まだ夜明け前の暗いうちから、響は荷物をまとめ始めた。 カーテンの隙間から、街灯の光がかすかに差し込む。ロサンゼルスの街は、夜でも完全に暗くなることはない。どこかで車の音がして、遠くでサイレンが鳴っている。 身の回りの物だけをスーツケースに詰める。服、洗面用具、パスポート。楽譜や作曲ノートは、すべてスタジオに残すことにした。もし晴真が必要になったら、それを使ってほしいと思った。 三年間の思い出が、次々と頭に浮かんでくる。 初めて一緒に作った曲。大学の音楽室で、夜遅くまで二人でピアノを囲んでいた。晴真が即興で歌詞をつけ、響がそれに合わせてコードを変えていく。完成した時、二人で顔を見合わせて笑った。 初めてのライブ。緊張で手が震えていた響の手を、晴真がそっと握ってくれた。『大丈夫、響の曲は最高だから』その言葉に、どれだけ救われたか。 初夏の夜、大学のキャンパスでの初めてのキス。発表会が終わった後、興奮冷めやらぬ二人は中庭を歩いていた。噴水の水音が静かに響き、月明かりが石畳を照らしていた。晴真が立ち止まり、響の手を取った時、世界が止まったように感じた。 東京ドームで五万人を前に演奏した時の興奮。ステージから見える無数のペンライトは、まるで星空のようだった。演奏が終わった後、晴真が響を抱きしめて『やったな、響』と囁いた。 すべてが、かけがえのない宝物だった。 でも、もうそれも終わりだ。 震える手で、手紙を書いた。何度も書き直し、涙で文字が滲む。ホテルの便箋に、万年筆で一文字ずつ丁寧に書いていく。『晴真へ 突然いなくなって、ごめん。 でも、これが一番いい方法だと思った。 晴真の才能は、世界レベルだ。 もっと優秀なプロデューサーや作曲家と組めば、 きっとスーパースターになれる。 自分のような中途半端な人間は、晴真の隣にいる資格なんてない。 三年間、本当に幸せだった。 晴真と出会えて、一緒に音楽を作れて、 愛し合えて、それは俺の人生の宝物だ。
その週末、響は美咲にメールを送った。日本との時差を考慮し、向こうの昼間に届くように送った。『美咲、相談がある。晴真のことなんだけど……』 すぐに返事が来た。美咲は昔から、レスポンスが早い。『篠原くん、どうしたの? 何かあった?』 響は、マイケルの言葉や、自分の不安を正直に打ち明けた。画面に向かって指を動かしながら、涙が零れそうになる。長文のメールになってしまったが、美咲はすぐに返信をくれた。『篠原くん、それは違うと思う。私、大学時代から二人を見てきたけど、藤堂くんが一番輝いてるのは、篠原くんと一緒にいる時だよ』 美咲のメールは続いた。『覚えてる? 大学の時の発表会。藤堂くんが篠原くんの曲を歌った時、会場中が涙してた。あれは技術じゃない。二人の心が通じ合ってたからこそ、生まれた感動だった』『確かに、技術的にもっと優秀な作曲家はいるかもしれない。でも、藤堂くんが求めてるのは、技術じゃなくて、心が通じ合える音楽なんじゃないかな。篠原くんの曲には、藤堂くんへのまっすぐな気持ちが込められている。それが一番大事なんだと思う』 美咲の言葉に、響は涙が出そうになった。画面が滲んで、文字が読めなくなる。『でも、俺のせいで晴真のチャンスを潰してるかも』『それは藤堂くんが決めることでしょう? 篠原くんが勝手に決めつけちゃダメだよ。ちゃんと話し合った?』 美咲の指摘は的確だった。響は、晴真と向き合うことから逃げていた。自分の不安を、晴真にぶつけることが怖かったのだ。『それに、篠原くん。愛って、相手の幸せだけを考えることじゃないと思う。一緒にいることで、お互いが幸せになれる。それが本当の愛なんじゃない?』 美咲の最後の言葉が、響の心に深く刺さった。 けれど月曜日になっても、響の態度は変わらなかった。 朝のスタジオは、カリフォルニアの強い日差しで明るく照らされていた。機材の金属部分が光を反射し、きらきらと輝いている。しかし、響の心は晴れることがなかった。 スタジオでは晴真を避け続け、休憩時間
その夜、響は一人で悩み続けた。ホテルの部屋は静かで、エアコンの低い音だけが聞こえる。ベッドに横たわり、天井を見つめる。ロサンゼルスの街の明かりが、カーテンの隙間から差し込んでいた。ネオンサインの青い光が、天井に揺れる影を作っている。 晴真の将来を考えれば、もっと優秀な人間と組んだ方がいいのかもしれない。自分のエゴで、晴真の可能性を潰してはいけない。 響は、三年前の出会いを思い出していた。 あの日、大学の音楽室で一人、ピアノに向かっていた自分。誰にも聴かせるつもりのない曲を弾いていた時、晴真が入ってきた。夕暮れの光が窓から差し込み、埃がきらきらと舞っていた。古いアップライトピアノの鍵盤が、手の温もりで少し温かくなっていた。『その曲、すごくいい。俺に歌わせてくれない?』 晴真の真っすぐな言葉が、響の心の扉を開いた。あの時の晴真の瞳は、夕日を受けて金色に輝いていた。それから、二人で数え切れないほどの曲を作ってきた。深夜のファミレスで楽譜を広げ、コーヒーを何杯も飲みながら議論した。時には喧嘩もしたが、音楽への情熱は変わらなかった。 初めてのライブの日。小さなライブハウスで、観客は五十人ほどだった。自分の曲を観客が認めてくれた瞬間だった。 そして、初めてキスをした夜。初夏の大学のキャンパス。発表会が終わった後、二人は誰もいない中庭を歩いていた。月明かりが噴水の水面をきらきらと照らし、夜風が優しく頬を撫でていた。晴真が突然立ち止まり、響の手を取った。 その時の晴真の表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。そして、ゆっくりと顔を近づけてきた。キャンパスの街灯が二人を包み、初めての口づけは温かくて、少し震えていた。 でも、もしかしたら晴真にとっては、僕と出会ったことで遠回りになってしまったのかもという思いが頭をよぎる。もし、もっと早い段階でより経験豊富な作曲家と組んでいれば、今ごろ世界的なスターになっていたかもしれない——ビルボードチャート上位に名を連ねて、大規模な世界ツアーを行い、たくさんのファンに囲まれていたかもしれない。 翌日から、響は晴真と距離を置き始めた。 朝
朝の光がスタジオの大きなガラス窓から差し込んでいた。ロサンゼルスの空は抜けるように青く、遠くにハリウッドサインがかすかに見える。響は楽譜を前に座りながら、どこか上の空だった。 新しいプロデューサー、ジェシカ・チャンとの初顔合わせの時間が近づいている。マイケルの一件以来、スタジオの空気は重苦しく、誰もが腫れ物に触るような態度だった。 会議室のドアが開き、アジア系の女性が入ってきた。三十代半ばほどで、黒いパンツスーツを端正に着こなしている。長い黒髪を後ろで一つに束ね、シルバーの細いフレームの眼鏡が知的な印象を与えていた。手にはレザーのポートフォリオと、スターバックスのコーヒー――ただし、一つだけ。「初めまして、ジェシカ・チャンです。これから皆さんのプロデュースを引き継がせていただきます」 ジェシカの英語は、マイケルよりもゆっくりで聞き取りやすかった。アジア系特有のイントネーションがかすかに残っているが、それがかえって親近感を与える。そして何より、その視線がプロフェッショナルだった。晴真を見る時も、他のメンバーを見る時も、同じように冷静で客観的だ。「まず、これまでの録音素材を聴かせてもらいました」 ジェシカがポートフォリオを開き、細かくメモが書き込まれた楽譜のコピーを取り出した。響は驚いた。マイケルは一度も楽譜に目を通したことがなかったのに、ジェシカはすでに詳細な分析をしている。「素晴らしいポテンシャルを持っています。特に響さんの作曲と晴真さんの歌声の相性は抜群ですね。第三楽章の転調部分、あそこは天才的です」 ジェシカは響の名前もきちんと呼んでくれた。しかも、具体的にどの部分が優れているのかを指摘している。マイケルのように、晴真だけを特別扱いすることはない。「ただ、方向性を少し修正したいと思います」 ジェシカがラップトップを開き、画面を全員に見せた。そこには、世界各国の音楽チャートと、アジア系アーティストの成功例が並んでいる。「もっと日本らしさを活かしながら、世界に通用する音楽を作りましょう。東洋と西洋、両方の良さを融合させてこそ、このプロジェクトの個性が生きてくると思います。実際、BTSや
翌日、スタジオに着くと、マイケルはいつも通りだった。昨夜のことなど、なかったかのように振る舞っている。完璧な笑顔、プロフェッショナルな態度。しかし、晴真への視線は昨日よりもさらに熱を帯びていた。まるで、昨夜の拒絶が、かえって執着心に火をつけたかのように。「おはよう、晴真。昨夜はごめんね。酔わせすぎてしまって」 マイケルの謝罪は、表面的なものだった。キスしようとしたことには一切触れない。その図々しさに、響は思わず寒気がした。 レコーディングが進む中、マイケルは相変わらず晴真への接触を続けた。肩に手を置き、腰に手を回し、耳元で囁く。その度に、晴真が身を固くするが、マイケルは気にしない様子だ。むしろ、晴真の反応を楽しんでいるようにさえ見える。獲物を追い詰める捕食者のような執拗さで、晴真を追い詰めていく。響は、その様子を見ているしかできない。プロデューサーに逆らえば、プロジェクトが頓挫する可能性がある。そのジレンマが、響を苦しめた。 その週の金曜日、マイケルがまた晴真を誘った。「週末、僕の別荘でパーティーがあるんだ。音楽業界の人たちが集まる。晴真も来ないか?」 晴真の顔が曇った。「君のような才能を、みんなに紹介したい。きっと、将来の役に立つはずだ。有名プロデューサーやレーベルの重役も来る」 マイケルの言葉は、断りにくいものだった。結局、メンバー全員で参加することになった。断れば、今後の仕事に影響が出るかもしれない。そんな計算も、マイケルは見透かしているのだろう。 土曜日の夕方、マイケルの別荘に到着した。マリブの海岸沿いにある豪華な邸宅は、白い壁と大きなガラス窓が印象的だった。プールサイドにはすでに大勢の人が集まっていた。音楽関係者、俳優、モデル。華やかな世界の住人たちが、シャンパンを片手に談笑している。響は、その光景に圧倒された。これが、世界の音楽業界なのか。きらびやかで、洗練されていて、そして恐ろしいほど遠い世界。自分がその中にいることが、まるで夢のようだった。いや、悪夢かもしれない。「ようこそ! 飲み物は自由に取って」 マイケルが晴真の肩を抱いて、ゲストたちに紹介していく。
一週間のプリプロダクションが終わり、いよいよ本格的なレコーディングが始まることになった。最初の週は、リズムセクションの録音から始まった。田中のドラムと山本のベースを録音していく間、響は引き続き作曲作業を続け、晴真はマイケルとのボーカルトレーニングを受けていた。スタジオの空気は、日を追うごとに重くなっていった。マイケルの晴真への執着が、誰の目にも明らかになってきたからだ。休憩時間には、マイケルは常に晴真の隣にいて、他のメンバーが近づくと、さりげなく晴真を独占しようとする。その様子は、まるで恋人のような振る舞いだった。 ある日の午後、マイケルが晴真に提案した。「今夜、時間がある? 僕の知り合いのボーカルトレーナーを紹介したいんだ」 晴真の顔が曇った。「今夜ですか?」 晴真の声には、明らかな戸惑いが滲んでいた。「ああ、彼女は元オペラ歌手で、今はポップスのトレーニングもしている。君の声域を広げるのに、きっと役立つはずだ」 マイケルは説明したが、その目は晴真から離れない。晴真が響を見た時、その目は助けを求めているようだった。「響も一緒に……」「いや、これはボーカリストのための特別なセッションだから」 マイケルが遮った。その口調は穏やかだが、有無をいわせない強さがあった。「響には、明日のレコーディングに向けて、アレンジを仕上げてもらいたい。それぞれが、自分の役割に集中すべきだ」 正論だった。響は何もいえない。プロデューサーの指示に従うのは当然のことだ。しかし、胸の奥で警鐘が鳴り響いていた。 その夜、響は一人でホテルの部屋にいた。ルームサービスで頼んだハンバーガーも、半分しか食べられなかった。冷えたフライドポテトが、皿の上で油を吸っている。その光景が、自分の心境を表しているようで、響は苦笑した。テレビをつけても、英語のニュースやドラマが理解できず、すぐに消してしまった。窓の外では、ロサンゼルスの夜景が煌めいている。無数の光が、まるで地上の星のようだ。でも、その美しさも響の心を慰めてはくれない。東京の夜景とは違う、異国の光。その一つひとつが、自分には関係のない他人の生活